6月号掲載の「読者の藤井 旭さんの思い出」にて、紙幅の都合で掲載しきれなかった白河天体観測所メンバーの片山栄作氏と石橋 力氏の手記を紹介します。
:片山栄作
この話は「白河天体観測所(誠文堂新光社 刊)」のp.43に掲載の「観測日誌」と同日の出来事です。
もう半世紀以上も前なので、いつのことだったか定かではありませんが、今でも心に残る藤井 旭さんとの思い出があります。それは私が開業医だった父とのある約束を果たすために、どうにも好きにはなれなかった医学部への進学コースに入学し駒場の教養学科の学生だった昭和40年代の話です。
生まれて初めて故郷を離れ、友人も知人もいない東京での下宿生活を始めた私は、寂しさを紛らわすため、中学時代から始めた天体写真でしばしば入選を果たしていた「天文ガイド」の編集部にお邪魔しました。初代編集長の田村 栄さんは、東京・上野の国立科学博物館に行けばアマチュア天文仲間に会えることを教えて下さり、そこで村山定男、小山ひさ子両先生を始め、大勢の星仲間と出会いました。そのころまでにかなりの回数の入選経験があったこともあり、皆さんは私の名前をご存じで、すぐに白河天体観測所の仲間に入れていただけました。その中の1人が藤井さんです。藤井さんはすでにアマチュア天体写真のパイオニアの1人として頭角を現わし始めていたころかと思います。
私は、医学部にこのまま進むべきか、それとも途中で転部して天文学などをやるべきか迷い、駒場で講義を持たれていた小尾信也先生に相談に行ったりしたものです。結局、医学部に進学し通常のコースで医師免許を取得しましたが、臨床医にはどうにも向いていないことを自覚していました。そこで基礎医学系の大学院に進んではみたものの、私は「団塊の世代」の最盛期に属しており、たとえ研究の道に進んでも、競争率の高さからアカデミアの職に就ける可能性は非常に低いものでした。臨床医にもならず、それで研究職に就けなかったらどうやって生活しようかと本気で思い悩んだものです。
研究室の主任教授は昔気質の厳しい方で、私が天文趣味を有していることを快く思っていませんでした。そのため、白河天体観測所に行ける機会はどんどん少なくなってはいましたが、そんな時期のある晩、藤井さんにお願いして白河駅まで迎えに来ていただき、白河天体観測所まで連れて行ってもらいました。その日の滞在者は私だけでしたが、藤井さんは一度帰宅したあと、50~60cmもある大きな容器いっぱいの握りずしとそのそばにチロ用の卵焼きを携えて観測所にもどってきました。お腹を空かせている私に「これを全部、食っていいから」といわれたのを憶えています。卵焼きまで食べようとしたらチロにウーと吠えられたエピソードはどこかの本に書いてありました。残念ながらその晩は天候が回復しなかったために撮影は諦め(「白河天体観測所」の「快曇」です)、2人とチロだけで過ごしましたが、時間があったので将来の心配ごとを藤井さんに打ち明けました。藤井さんは「片山くんがもし職にあぶれたら、何とかして自分が面倒をみてあげるから、安心して研究や勉学に励むようにしろ」といってくださいました。当時、藤井さんは次々と著作を出版され、活躍され始めていましたが、まだそれほど余裕もなかったはずです。しかし、私を安心させるためにそういってくださったのだと思います。その一言はとてもありがたく、不安でいっぱいだった私の心に強く響きました。その後、私は一応職を得て長い研究生活を終えました。すでに退職していますが、そのときのありがたいお言葉は今でも心に残っています。
辛いときや仕事で行き詰まったときの気分転換の手段として天文の趣味は最高です。天体画像の撮影は昔から好きですが、どちらかといえば引っ込み思案だった私に大勢の仲間とのいろいろな楽しみ方や新たな体験をさせてくれた藤井 旭さんは私にとって、一生の大恩人です。
藤井さんのような多面的な才能の持ち主は二度と現われないと思います。便箋いっぱいに大きな字で書かれた、楽しいイラスト付きのお便りももう届きません。まだまだ活躍されると信じていたのに、本当に寂しいです。
今ごろは先立った白河天体観測所の旧友たちとの再会を楽しんでおられるかもしれません。
心よりご冥福をお祈りします。
:石橋 力
「ふじい旭」のサインのあるアストロ光学の口径6cm望遠鏡。
藤井 旭さんが、初めのころにガイド撮影に使っていたのは、アストロ光学の口径6cm F15の望遠鏡です。1967年にニコンの口径8cm赤道儀が登場すると、それを使うようになりました。その最初のアストロ光学の鏡筒は、現在、私が所有しています。
なぜそうなったかの経緯と、望遠鏡のその後の様子を紹介します。
1970年3月7日のフロリダ日食観測ツアーへの出発時(3月3日)。羽田空港にて。前列左端が藤井 旭さん。後列、右から5番目が筆者。
1969年、大学生だった私は、科学博物館の村山定男先生のところに出入りしていました。そして村山先生や藤井さんが共同で作った、白河天体観測所の開所式にも参加しました。
ある夜、中学のM先生から家に電話がありました。それは「村山先生が1970年の3月に、フロリダの皆既日食遠征のツアーを計画している」という内容でした。大学生の自分には、とてもそんな旅費はありません。晩酌をしていた父が、脇で聞いていて、「お前、行きたいのか?」といいました。「行きたい」と答えると「よし、行かせてやる」といってくれました。
それまでも、藤井さんとは会っていましたが、この旅行がそれまで以上に親しくなるきっかけだと思います。村山先生のツアーは、3週間かけてニューヨークからワシントン(海軍天文台)、日食のペリー、ケネディー宇宙センターでアポロ13号の発射を見て、ツーソン(キットピーク天文台)、グランドキャニオン、フラグスタッフ(ローウェル天文台)、バリンジャー隕石孔、サンディエゴ、パロマ天文台、ロサンゼルス、サンフランシスコ(リック天文台)、ホノルルを経由して帰国するという、贅沢な行程でした。
日食は曇られ、360°の夕焼けのような光景しか見えず、アポロ13号は発射が延期されて、発射台の姿を見ることだけになりましたが、この3週間の間に、藤井さんだけでなく、ほかの天文の先輩とも親しくなることができました。
バリンジャー隕石孔。藤井さんからもらった魚眼レンズで撮影した写真です。
白河天体観測所には、そのあとも度々訪れました。観測所にはなぜか傷だらけの6cm屈折の鏡筒が置いてありました。藤井さんと親しい大野裕明さんに聞くと「藤井さんが最初に天体写真を撮るのに使っていた鏡筒で、もう使っていない。もったいないね」といわれました。そして、藤井さんに「持っていってもよい」と言われたので、ありがたくいただいてきました。
1987年9月23日の沖縄金環日食。藤井さんから譲っていただいたアストロ光学の口径6cm望遠鏡で撮影しました(右)。
藤井さんから声をかけられた「星空への招待」には、第1回から参加しました。1984年の最後の「星空への招待」に、このアストロの6cm望遠鏡を持参しました。藤井さんに望遠鏡をいただいた旨を話すと、快く鏡筒にサインをしてもらえました。このとき改めて、藤井さんが最初に使っていた望遠鏡が、正式に私のものになった気がしました。
この望遠鏡を、私は1987年の沖縄金環日食のときに使用し、ミニコピーできれいな円形の太陽面、内側の月の縁は凹凸のある写真を撮ることができました。
ミニコピーで撮った沖縄金環日食の最大食時の写真。
「星空への招待」が終わったことや、私に子どもが生まれたことなどから、その後は天文関係のパーティーなどで藤井さんにお目にかかる程度になりましたが、毎年、藤井さん製作の天文カレンダーを送ってもらったり、藤井さんの著書に私が撮影したアメリカの日食の写真を使っていただくなど、最後までお付き合いをしていただきました。
2022年の暮れ、今年は天文カレンダーが来ない…と思っていたら、藤井さんの訃報のメールが届き、とても驚きました。
たいへん残念に思うとともに、藤井さんのご冥福を心からお祈りします。